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 八十日の間、私と作家同盟、文新、「コップ」の同志との連絡は完全に絶たれ、外の様子は駒込署の中に押しこめられていた私に何一つ分らぬ。一ヵ月半ばかり経った時、作家同盟の木村好子さん、後藤郁子さんが折角面会に来て呉れたのに、留置場の私がそれを知ったのは翌日のしかも夕方でした。出て来てからそのときの話をきくと、まあ何と憎らしいことでしょう! 駒込署の高等係は、余り二人の同志が私に会わせろとガン張るのに閉口して留置場まで降りて行ったふりをし、私が「こういう場所では会いたくないから」と云ったと見えすいた嘘をついて到頭追いかえしてしまったのだそうです。私が何とかして会いたいと留置場の中で日夜願っている同志たちとはこういう細工をしてまで会わせず、会わせる者はと云えば、帝国主義官憲とグルになって、もう「コップ」の仕事はしないと云えなどとよくも恥しらずにすすめる奴らです。私はプロレタリア婦人作家として、プロレタリア文化のために働くことこそ命だと思っている。どうして対手になれよう! それらと闘いぬいて出て来ると、敵は何とかケチをつけるため、父親が一札を入れたおかげで出されたのだとか、あやまったからだとか「今回の検挙によって思想上に一転機を来した」から釈放されたとか、ブル新聞に書き立てさせる。文化活動者として私をわれわれの同志から、大衆から切りはなそうとする悪辣きわまるデマです。敵は、私を二年も三年も監禁する理由を発見し得なかったので、今度は体は自由でも仕事のやってゆけぬようにしようとする。

 細い流れがうねって引込んである。奥の植込みに、石南花が今を盛りに咲いていた。海、砂、五月の空、互になかなか美しい、もう一本目を牽く樹があった。すんなり枝を延ばし梢高く、樹肌がすべすべで薄紅のに、こちゃこちゃ、こちゃこちゃとかたまって濃緑、臙脂、ぱっとした茶色などの混った若芽が芽ばえ出している。ちょうど若葉の見頃な楓もあったが、樹ぶりが皆、すんなり、どちらかというと細めで素直だ。石南花など、七八年前札幌植物園の巖の間で見た時は、ずんぐりで横にがっしりした、まあ謂わば私みたいな形だったのに、ここで見ると同じ種類でもすらりとし、背にのびている。
 これは、別府でふと心づいたことだが、九州を歩いて見、どこの樹木でも大体本州の樹より細幹とでも云うのか、すらりと高く繊細な感じをもっているのは意外であった。勿論釣合の上のことで、太い大木だって在る。けれども決して、北国の樹のように太短くはない、太ければ太いだけ梢を高く高く冲している。それらが房々青葉をつけて輝いている。いかにも軽やかに、明るい。大分臼杵という町は、昔大友宗麟の城下で、切支丹渡来時代、セミナリオなどあったという古い処だが、そこに、野上彌生子さんの生家が在る。臼杵川の中州に、別荘があって、今度御好意でそこに御厄介になったが、その別荘が茶室ごのみでなかなかよかった。

 一九一四年の夏は、ピエール・キュリー街にラジウム研究所キュリー館ができ上ってキュリー夫人はそこの最後の仕上げの用事と、ソルボンヌ大学の学年末の用事とで、なかなか忙がしかった。フランスの北のブルターニュに夏休みのための質素な別荘が借りてあったが、彼女はパリが離れられなくて、まず二人の娘イレーヌとエーヴとを一足先へそちらへやった。お母さんであるキュリー夫人は八月の三日になったならばそこで娘たちと落合って、多忙な一年の僅かな休みを楽しむ予定であった。
 ところが思いがけないことが起った。七月二十八日に、オーストリアの皇太子がサラエヴォで暗殺された。世界市場の争奪のため、危機にあった欧州の空気はその硝煙の匂いと一緒に、急速に動揺しはじめた。キュリー夫人は土用真盛りの、がらんとしたアパートの部屋でブルターニュの娘たちへ手紙を書いた。
「愛するイレーヌ。愛するエーヴ。事態がますます悪化しそうです。私たちは今か今かと動員令を待ち受けています。」
 しかし戦争にならなければそちらへ行けるでしょうと約束した月曜には、独軍が宣戦の布告もせずに武力に訴えながらベルギーを通過してフランスに侵入した。
 パリの母は再び娘たちに書いた。